イスラエルを理解するためのブログ(柳田のブログ)
毎日のようにテレビのニュースを見てると、ガザでイランでイスラエルは攻撃を繰り返してます。この背景にはベンヤミン・ネタニヤフ首相を理解する必要があると思うのです。ネタニヤフ(ナタニヤフ)とは、ヘブライ語で「ヤハウェが与える」という意味です。「絶対神=ヤハウェ」はユダヤ教では神のことです!ネタニヤフはイスラエルの存立を脅かす勢力に対して強硬な立場をとることで知られるが、ガザ地区でのハマース掃討作戦に関して「アマレク人(ヤハウェの命で聖絶された民族)が我々に対して何をしたかを思い起こせと私たちの聖書が呼び掛けている」「私たちはアマレク人の所業を記憶している」と発言するなど、ジェノサイドを示唆するような言動に関しての批判もある。
1949年10月21日にテルアビブでベン=ツィオン・ネタニヤフとジラ・ネタニヤフの次男として生まれた。父親のベン=ツィオンはロシア姓をミレイコフスキー(Милейковский)といい、1910年に、旧ロシア帝国ポーランド領ワルシャワで生まれた。彼の父(ベンヤミンの祖父)は、シオニスト運動家のネイサン・ミレイコフスキーで、一家は1920年にパレスチナへ移住し、エルサレムに入植した。ベン=ツィオンもまた父の思想を受け継いだシオニスト運動家で、コーネル大学でユダヤ史の教授をつとめた。及びヘブライ・エンサイクロペディアの編集者であり、それが息子たちの思想に大きく影響している。
ネタニヤフは家族と共に1956年から1958年、1963年から1967年にかけてアメリカに在住。ペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外で成長し、チェルテナム高校を卒業した(兄も同高校を卒業している)。高校ではディベートクラブに所属していた(そのため英語に堪能であり、言葉にはフィラデルフィア訛りがあるという)。
MITを優秀な成績で卒業後、1976年から1978年にかけてボストン・コンサルティング・グループで経営コンサルタントとして勤務し(当時の同僚に後のマサチューセッツ州知事となるミット・ロムニーがいた)、イスラエルに帰国。兄のヨナタン・ネタニヤフは1976年のエンテベ空港奇襲作戦で戦死している。弟のイド・ネタニヤフは放射線科医であり劇作家でもある。兄弟は三人ともイスラエル国防軍のエリート部隊、「サイェレット・マトカル」に所属していた。エンテベ空港奇襲作戦のことは、イスラエルで映画になったので世界的に有名になりました。この事件でヨナタン・ネタニヤフ氏は国民的英雄になりました。
ベンヤミン(ビビ)・ネタニヤフ氏が一躍有名になるのは、1991年の湾岸戦争です。ガスマスクを着けてCNNテレビに出演して、外務次官という立場でありながら事実上のスポークスマンとして自国の大義を力説。それも、米国人と寸分違わぬ英語での話術は脚光を浴び、政界のホープとして嘱望され始める。
転機となったのは、翌・1992年の総選挙である。カリスマ的な人気を誇ったイツハク・ラビン率いる労働党の前に、首相のシャミル率いるリクードは大敗して野党になった。シャミルは党首を辞任して政界を引退した。ネタニヤフは同年のリクード党首選に出馬、当選2回でありながら、ベニー・ベギンやダビッド・レビ、モシェ・カツァブを破り、リクードの党首になった。
<1期目>
ネタニヤフはパレスチナ過激派のイスラエルに対する自爆攻撃が多発した1996年7月の総選挙で勝利し、1992年にクセネト(国会)で成立していた首相公選制に基づいて行われた首相選挙で選出された。シモン・ペレスはパレスチナ過激派の自爆攻撃を鎮めることができず、公の信頼は急速に低下していた。1996年3月3日、4日のパレスチナによる二度の自爆攻撃では32人のイスラエル人が死亡した。この攻撃がきっかけとなり、ペレスはテロリズムに対する無策が批判され結局選挙で敗北することとなる。ペレスと異なり、ネタニヤフはヤーセル・アラファートを信頼せず、和平プロセスはパレスチナ自治政府の義務であるとし、自国に対するあらゆる攻撃に対抗する姿勢を示した。
首相として彼はヤーセル・アラファートと交渉し、ワイ・リバー合意を成立させた。しかし多数の者がネタニヤフはパレスチナ自治政府との合意を遅らせようとしていると非難した。ネタニヤフの和平交渉へのアプローチは強者としてのイスラエルをパレスチナ側に押しつけるものであった。
- “彼らが与えるならば – 彼らは得ることができる。彼らが与えない場合 – 彼らの得る物は無い。”
- “יתנו – יקבלו. לא יתנו – לא יקבלו”
このアプローチはうまくいくように思われた。前任者ペレスや後任者バラックと異なり、ネタニヤフの在任期間はパレスチナの自爆攻撃は少なく比較的平静であった。1996年にネタニヤフとエルサレム市長エフード・オルメルトは嘆きの壁のトンネルに出口を開くことを決定した。この決定はパレスチナ人による三日間の暴動の口火となり、百人以上のパレスチナ人がイスラエル側によって殺害された。
対テロリズム政策の成功にもかかわらず、ネタニヤフは多くのエリートに嫌われ、メディアからは左翼と同一視された。一連のスキャンダル(彼の妻のゴシップを含む、97年には当時最側近だったツァヒ・ハネグビ法相に贈収賄疑惑が浮上するものの、最高検は嫌疑不十分で立件を断念している)と汚職に関する調査の後、ネタニヤフは大衆の支持を失った。
その後、アリエル・シャロンさんと争う。基本的にはパレスチナアラブ人とは手を組みたくないし、彼らから武器を取りのぞくべきであるという考えでもある。
2007年9月19日地元テレビのインタビューで同月6日のイスラエル空軍によるシリアへの限定空爆を暴露。オルメルト首相に支持する旨を伝えていたことを明らかにした。空爆施設は、シリアが北朝鮮の協力の下、核開発を進めていた疑いがもたれている。 2008年1月10日、イスラエルを訪問したジョージ・ブッシュ大統領会談し、イランの軍事的脅威に対する意見交換を行った。
<人生>
ベンヤミン・ネタニヤフは1949年10月21日にイスラエルの首都テルアビブにて生まれた。彼の母親のツィラ・シーガル(1912年 – 2000年)は、オスマン帝国のエルサレム・ムタサリファテのペタク・チクヴァで生まれ、父親のワルシャワ生まれのベンジオン・ネタニヤフ(旧名ミライコウスキー、1910年 – 2012年)は、スペインのユダヤ人黄金時代を専門とする歴史家であった。彼の父方の祖父のネイサン・ミライコウスキーはラビでシオニストの作家であった。ベンヤミン・ネタニヤフの父親は委任統治領パレスチナに移住した際、自分の姓を「ミレイコフスキー」から「神が与えた」という意味の「ネタニヤフ」にヘブライ語化した。彼の家族は大部分がアシュケナージであるが、DNA検査の結果、セファラディ系の祖先を持っていることが判明したと彼は述べた。彼はビルナ・ガオンの子孫であると主張している。
ベンヤミン・ネタニヤフは3人兄弟の2番目として生まれた。彼は当初エルサレムで育ち教育を受け、ヘンリエッタ・ソルド小学校に通った。6年生時の教師ルース・ルーベンシュタインからの評価のコピーによると、ベンヤミン・ネタニヤフが礼儀正しく、親切であることが示されていた。彼は「責任感があり、時間厳守」だった。そして、彼は友好的で規律正しく、陽気で、勇敢で、活動的で、従順だったという事の証明となった。
1956年から1958年そして再び1963年から1967年にかけて、父親のベンジオン・ネタニヤフがドロップシー大学で教鞭を執る間、家族はアメリカ合衆国フィラデルフィア郊外のペンシルべニア州チェルトナム・タウンシップに住んでいた。ベンジャミンはチェルトナム高校 に通い卒業し、ディベートクラブ、チェスクラブ、サッカーで活躍した。ベンヤミンと弟のヨナタンは、蔓延する若者のカウンターカルチャー運動や、家族が参加していた改革シナゴーグ、フィラデルフィアの神殿ユダヤの自由主義など、この地域で遭遇した表面的な生活様式に不満を抱くようになった。
私はユニットをとても尊敬しています。これは、たとえその行動が秘密であっても、私たちの生活の現実を変えるユニットです。小規模な部隊ではありますが、軍のあらゆる部門に影響を与えています…部隊での勤務により、作戦承認の背後に含まれるリスクと戦闘員が引き受けているリスクについての理解が深まりました。それは私にとって理論的なものではなく、具体的なものです。 ベンヤミン・ネタニヤフ、サイェレット・マトカルについて(マーリブ2007)
1967年に高校を卒業した後、ベンヤミン・ネタニヤフはイスラエル国防軍に入隊するためにイスラエルに戻った。彼は戦闘兵士として訓練を受け、イスラエル国防軍の特殊部隊であるサイェレット・マトカルに5年間勤務した。彼は1967年から1970年の消耗戦争中に数多くの国境を越えた襲撃に参加し、その中には1968年3月にイスラエル国防軍がパレスチナ解放機構(PLO)の最高指導者ヤーセル・アラファートを捕らえるためにヨルダンを攻撃したカラメの戦いも含まれるが、多大な死傷者を出して撃退された。彼は戦闘で何度も負傷した。彼は1968年のイスラエルによるレバノン襲撃や、 1972年5月に肩を撃たれてハイジャックされたサベナ571便の救出など、他の多くの任務に携わった。彼は1972年に現役を退役したが、サイエレット・マトカル予備役に残った。除隊後、彼はアメリカに留学したが、1973年10月にイスラエルに戻り、第四次中東戦争に従軍した。彼はシリア領土奥深くでイスラエル国防軍部隊による攻撃を指揮する前に、スエズ運河沿いでエジプト軍に対する特殊部隊の襲撃に参加したが、その詳細は現在も機密のままである。
イスラエルは2002年から、パレスチナとの間に壁を作り続けてきた。
出ていく人は厳重にチェックしないが、入ってくる人は徹底的にチェックする!高さ7~8メートルの壁を築き上げてきたのである。
それを守るのがシンベットというイスラエルのFBIである。
ネタニヤフ氏の奇妙な発言は、
2015年10月にネタニヤフは「ナチスのアドルフ・ヒトラーは、当初はユダヤ人を絶滅させようとはせず、ユダヤ人を追放しようとした。しかし当時のエルサレムのグランドムフティ(パレスチナのイスラム教の指導者)のアミーン・フサイニーがヒトラーに面会して、もしユダヤ人を追放すれば彼らはパレスチナに来るだろうと言い、それでどうしたいかとヒトラーに問われ、ユダヤ人を燃やせと答えた」と発言して広範な批判を受けた。この考えは主流の歴史家によって否定されている。歴史家は、アミーン・フサイニーとヒトラーのこの会談が行われるよりも前に、すでにナチスによるユダヤ人の大量殺人が始まっていたと言っている。ネタニヤフは後に「私の先の発言の目的は、ヒトラーに罪が無いと言いたかったわけではなく、国家(イスラエル)がまだない頃、いわゆる占領がまだない頃、(イスラエルの)領土や入植地もない頃に、現在パレスチナ国家の父として尊敬されている人物が、ユダヤ人の破壊を熱望して組織的に扇動していたと示すことだった。そして、その扇動は現在も続いている」と説明した。ドイツの首相アンゲラ・メルケルは、ネタニヤフとの共同会見で、ホロコースト(ショアー)は(パレスチナではなく)ドイツだけに責任があるとの歴史認識に変更はないと述べた。最も強い批判のいくつかは、イスラエルの学者から来た。イェフダ・バウアーは、ネタニヤフの主張は「完全にばかげている」と述べた。モシェ・ツィンマーマンは、「どんな形であれ、ヒトラーから他の人に責任をそらそうとする試みは、ホロコーストの否認にあたる」と述べた。サイモン・ウィーゼンタール・センターのen:Efraim_Zuroffは「ネタニヤフの発言は間違いだが、ムフティがホロコーストに関係していることは歴史的事実だ」と言っている。David S. Wyman Instituteのen:Rafael_Medoffは「4000人のユダヤ人を(当時の)パレスチナに送還する計画にムフティは反対して、その結果そのユダヤ人はアウシュビッツに送られた。ムフティはユダヤ人が殺されることになるとわかっていたことを示すたくさんの証拠がある」と言った。
☆更には、
元イスラエル諜報特務庁長官のタミル・パルドは、ネタニヤフの司法改革や外交政策に対し厳しく批判しており「ネタニヤフはイスラエルをアパルトヘイト国家にしようとしている」と非難している。
ハダシュ党首のアイマン・オデフはネタニヤフのアラブ人に対する政策と、ガザ侵攻の代表される戦争に反対し、彼を人権侵害を行なっているシリアと比較していた。
☆10月7日のハマスの奇襲攻撃については、危機管理という点で
ネタニヤフは保守(右派)系の政治家であるが、2023年10月7日のハマースの奇襲攻撃を事前に察知できなかった事、ハマースのテロリストがイスラエル国土に侵入した後も対応が遅れた事への批判が保守系のイスラエル国民の間で広がった。 イスラエル国防軍はアジアで最も実戦経験があり諜報機関も優秀だったにもかかわらず200人以上のイスラエル国民の拉致が発生したこともダメージコントロールが出来ていないという責任追及がなされている。イスラエル国民の94%がハマスへの対応における準備不足の責任は政府にあると考えており、56%はネタニヤフは紛争終結後に辞任すべきだとしている。
☆また、ガザに対する強硬な思想はここからも伺えるでしょう?
2023年パレスチナ・イスラエル戦争において大臣のアミハイ・エリヤフが「ガザに原爆を使うのも選択肢の一つ」と発言したことや、ネタニヤフが本戦争に対しヘブライ語聖書を引用し、「アマレク人が我々に対して何をしたかを思い起こせと私たちの聖書が呼び掛けている」「私たちはアマレク人の所業を記憶している」発言したことに批判が集まった(「サムエル記」(15章3節)では、「アマレクとを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、ラクダもロバも打ち殺せ。容赦してはならない」と神が命令したと記されている。アマレクはイスラエルの敵を指すため、実質的に「パレスチナ人を皆殺しにする」ようなニュアンスとなる)。12月29日、南アフリカがイスラエルを、ジェノサイド条約違反の疑いで国際司法裁判所に提訴した。南アフリカは、ジェノサイドの意図の証拠の一つとして、このネタニヤフの発言を引証した。2023年12月27日、トルコのエルドアン大統領は、イスラエル軍に殺害されたガザ住民は2万人以上に上ると報告したことに触れ、「ネタニヤフは1940年代に数百万人ものユダヤ人を大量虐殺したヒトラーと同じだ」と演説した。2024年1月16日、イスラエル首相官邸は、南アフリカの「誤った馬鹿げた告発」であり、「ハマースのジェノサイド・テロリストが行った邪悪な行為と対峙する必要性を述べた物」と反論した。
一方で、イスラエル国内では「アマレク」皆殺しへの支持もあった。ネスとスティラによるデュオ曲”Harbu Darbu”は、イスラエル国防軍が「アマレクの子ら」に地獄の雨を降らせるという内容で、ガザ地区などへの攻撃を鼓舞し、ハマースのイスマーイール・ハニーヤ、イランのハサン・ナスルッラーフ、そしてネスとスティラが「親ハマース」と見なしたベラ・ハディッドらを名指しで標的とした。”Harbu Darbu”はケシェット・インターナショナル傘下の「mako」ヒットチャートで1位となるなど流行歌となり、IDF兵士にも流行したという。”Harbu Darbu”もまた、「ジェノサイド的」と非難されたが、ネスとスティラは「世界に我々が強国、強い軍隊を持つ国であり、悪い事ばかりではないことが知られて嬉しい」との見解を示した。
また、2024年4月19日、アビ・ディヒター農業・地方開発大臣は、ニル・オズのキブツからハマースらに拉致されたイスラエル人が、「(ハマースと)無関与とされる」ガザ住民によって傷害を負わされたと主張した。その上で、一人一人の住民を「テロリスト」と呼び、神の啓示とされる「アマレクの記憶を天の下から消し去る(「申命記」25章19節)」を引き、刑務所か墓のなかに送らなければならないと主張した。
4月29日、ベザレル・スモトリッチ財務相兼国防省付大臣は、ハマースなどとの停戦に反対し、「中途半端な仕事など存在しない。ラファ、デイル・アル=バラフ、ヌセイラットは「完全な殲滅だ。『アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい』だ。天の下に場所などない。」と、やはり「申命記」25章19節を引いて主張した。
<今回のブログの意味>
何故、ネタニヤフ首相はガザへの攻撃をやめないか?お父さんが歴史学者であり、ユダヤ人はユダヤ人しか助けてくれないという思想であり、お兄さんがエンティベ空港奇襲作戦で殺されていることなどから、アラブ人に決して妥協しないのだろう?日本のテレビではガザの人たちにどちらかと言えば同情的である???でも彼らはテロリストである。先にイスラエルにテロを行ったのはハマスである!!!そして、ガザの人たちはそのハマスを支持しているのである???ガザの人たちは食料がないと言っているが、援助をしたもの(日本やアメリカからの食糧援助や金銭援助)でやってきたことは、ガザの町に穴を掘ってイスラエルと戦う準備である???自分たちが食べるものさえ作ってこずに、国連からの援助に頼ってきたのはいかがなものであろうか???しかも、そのお金でテロリストの訓練などをしてきたのだ???
彼らは信じられないような軍事トンネルを掘っているのは事実であり!イスラエルの音楽祭を狙ってテロを仕掛けてきたのも事実である!!!要するにテロをするお金はちゃんとあるわけである???世界はお金を援助するときに、本当に貧しくて援助が必要な人たちに援助(人道的な援助)をする為にモニター(監視などを)すべきではないか?日本は外務省の外交官の自己満足の為に援助してるのであるから。ガザに援助するお金があるのなら、日本の災害被災地に援助を真っ先にすべきではないか?その上で、余裕があるなら人道支援を監視の下ですべきだと考えている!何故、日本政府はこれぐらいのことが出来ないのか不思議である???
私は日本のテレビではガザの人たちがかわいそうというのに少しは心が動かされるが、その子供たちにイスラエル兵たちに石を投げさせて、イスラエルの兵士が反応したらそれをメディアで世界中に広めて、反イスラエルを作り上げていく汚いパレスチナのプロパガンダも嫌気が来ている。彼らのテレビの前での過剰なジェスチャーを見てると、そもそも彼らにも問題があるのではないかと思いたくなる!!!イスラエルもやりすぎなのかもしれないが、これぐらいやらないと、テロリストがまたのさばるということなのかもしれない???日本の人たちはテレビを見てるとパレスチナの人たちが、女性や子供が可哀想というけれども、テロリストを熱狂的に支持してるのは何なんだろうとも思ってしまう。イスラエルもやり過ぎてるかもしれないけど、イスラエルの人たちはこの戦争を支持してるのである???長年、テロにさらされてきたからである。テレビは偏ってると思う。パレスチナの人たちは早くハマスを支持するのをやめて、テロをやめなければ援助をしないというぐらいのことを日本も世界も言うべきだと思う。
<ポレポレコマーシャル>
8月3日にポレポレと関係がある、手話ダンスグループがミュージカルをします!場所は広島駅南口地下広場(エールエール広場)にて無料で見学できます。是非、皆さん応援に来てください!